2020/01/22
ふわふわ
「お前とはうまいビールが飲めそうだ」。最悪なおっさんクリシェ。気持ち悪いのはおっさんに擬態した若者言葉だということ。ほんとのおっさんはそんなこと言ったりしない。正体はおっさんを目指した若者でもないエイリアン。わたしはビールのおいしさがわからないのにその言葉を聞いて、(うれしい!)と思って「ありがとう!こころのともよ!」なんて泣きながら言い返したりする。嘘だけど。そしてグラスを掲げる。cheers!。ウーロン茶だったりするけれど元気だったらほんとにビール。本当にビールはまずいと思うけれど「お前となら」とかそんなこと言われたらやっぱり美味しい気がしてくる。何より横を見るとみんな気持ちよさそうな顔してるし。
そんな経験を10万人ぐらいの社会人一年目の人とか、サークルに入りたての大学一年生みんなしているのだろうか。思い切りプラス思考で考えてみる。ありがとう、「わたしのことがわかるよ」とオブラートに包んで言ってくれて。だってわたしとじゃないと普段はまずいと思っているんだよね。ホントのホントのおっさん以外みんなまずいものをまずいと思っていて、あえておいしいふりをする擬態をしているんだね。ごっこのごっこ。ごっこのごっここそが社会をサヴァイヴするこつなんだね。真似する。「お前とはうまいビールが飲めそうだ(嘘だけど)」。
2019年は「個人的な」という言葉をよく聞いた。たとえばそれは映画の感想で「これは個人的な映画だった」「個人的には好きな映画」「個人的に印象に残ったシーン」などなど。「鍵付き」や「プライベート」を意味するようでまた違う。2019年につぶやかれた「個人的な」の言葉は映画をもっと「わたし」側に帰属させるような「わたしだけの」に近い言葉のように感じる。
わたしの好きな映画の特徴は「嘘だけど」みたいな言葉以前のつぶやきがあふれている映画だ。「嘘だけど」の言葉は素晴らしい。最短で最大の破壊力。それまでの全ての時間を全部ひっくり返す力強さを持っている。瀬田なつき『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(2010)と風間志織『火星のカノン』(2001)の2本の映画はそんな未知のつぶやきで溢れている数少ない映画だ。ポイントは「嘘だけど」のつぶやきが誰かに向けて発せられた言葉でもないこと。『嘘つきみーくん』では染谷将太が大事な告白や思いを語った後、全てを無に帰すように最後にカメラ目線で「嘘だけど」とつぶやく。その言葉は染谷将太の会話している相手には聞こえない。まさにそのときその言葉は宙に浮いてしまう。でもなぜだかホッとしている自分を感じる。「嘘だけど」の言葉は台詞を切断して「映画」を「個人的な」体験の側へグッと引き寄せる。もちろんそんな風にフワフワしている染谷将太はつぶやきとともに本当に屋上から飛び降りて宙に浮いてしまう。空を飛ぶ、というより重力を失った形で天と地を逆転した街を見下ろす(見上げる?)染谷。犯人は俺だった、俺じゃなかったと本筋は錯綜するがそんなこといちいち気にしてはいられない。ただ心地良い「嘘だけど」の響きとともに抽象性を増していく噛み合わない会話に身を委ねること。それをこの映画は教えてくれる。
風間志織『火星のカノン』(2001)はもっと過激だ。大筋としては不倫をしている中年男性(小日向文世)に惹かれ続けるチケット屋で働く主人公(久野真紀子)と、その主人公に惹かれ続ける昔のバイト仲間だった聖(中村麻美)との三角関係を描いている。今なら百合映画とでも形容されてしまいそうなそんな大筋よりも、風間志織監督作品の特徴である「・」や句読点が入り混じるモノローグこそがわたしたちの記憶に残ることだろう。「なんだよ」「なんでもないよ」。「なんだよってなんだろう」。およそ一人の人物から発せられたとは思えない言葉が反復され、独り言ギリギリの鑑賞者に聞こえるか聞こえないかの音が繰り返される。風間志織はさりげなく3人以上の会話でもその類いの言葉を繰り返させている。そう、わたしたちは普段、わたしたち自身がおもっているよりもずっと意味のわからない言葉を使って会話(らしき何か)をしている。言いよどみ、酔っぱらいの(フリの)戯言、そもそも聞こえないこと。正しい交換がなされることこそ稀なんだ。この映画のリアリティはそこにある。だからこそ、主人公のことが好きで好きでたまらない聖(中村麻美)の口から発せられる言葉は感動的だ。「わたしはずっとすきなひとといたいです。はなれたくありません」。どう解釈したってプリミティブなその言葉は何にも変換できないし、嘘であってほしいと願わずにはいられないタイミングで発せられてしまう。思いが溢れ出してしまうとはこういう状況を指す言葉なのだろう。「はなれたくありません」。その言葉の意味なんてずっとずっと超えた次元で涙が止まらなくなってしまう。
無に帰す一言をナイフのように忍ばせながらごっこのごっこに興じること。映画を見ること、はては映画を撮ること、生きることなんてそういうことなのかもしれない。だからもう一度声に出して言う。「(嘘だけど)」。
2020/01/18
『音楽』、『ラストレター』をなかったことにする『ハロルドとモード』
1月17日
久しぶりにアップリンク以外の映画館に行ってまずは大橋裕之原作『音楽』を観た。客層がジジイもいるし成人したてみたいな大学生の男の子たちとか、明らかにサブカル女子とかがいていい感じだった。内容はともあれエンディングがなぜドレスコーズだったのか、その統一感のなさ、最後のブチ壊しで完全に萎えた(ていうかプロモーション的な戦略とかが見え透いていて無理)けど、最後のケンジがリコーダーを吹く演奏は、ともだちのおっさんがベース弾いてたから1000点だった。まあそれ以外は特に言うことなし。上京して中央線で活動するカルチャーと、幼少期からそこで生きてきたカルチャーとではやっぱり齟齬があると思う。そんなことを物心ついた時からあった吉祥寺パルコの近江屋閉店を耳にして強く感じた。別にどちらに優位があるとかそういう話がしたいんじゃないけど、やっぱり齟齬はそこに存在するんじゃないか。結局、近江屋は小さい頃おばあちゃんに連れられて行ったっきりだった。さようなら。
その後、展示を見て再び新宿に戻り、公開初日の岩井俊二『ラストレター』を観た(公開初日に観るなんて大好きじゃん!恥ずかしい!って騒いでた)。映画をたくさん観るようになったのは大学入ってからだった。で、ちょうどどハマりしたのが岩井俊二だった。よくある話すぎるでしょ。いちばん好きなのは『PicNic』で、もうCharaばっかり聴いてた(あーよくある話!って恥ずかしくなる、でも当時はめちゃくちゃシビれた)。『リリィ・シュシュのすべて』も『花とアリス』もやっぱり好きで、『四月物語』なんかはそれから数年間、春になるたび観ていた。
夢から醒めたのは『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観たときだった。もう4年も前かと思うとびっくりしちゃうけど、ともだちと観に行って私は完全に萎えて帰りの飲み屋で永遠に私は二十歳前後どんだけ岩井俊二が好きだったか、そして今回でどんだけ嫌いになったかを勝手に語っちゃったのを覚えている。私はもうその頃には夢から醒めてしまっていたし、同時に岩井はこちらからしては気持ち悪い美しさを追求しすぎてしまっていた、と信じたい。で、萎えてぶりの『ラストレター』はやっぱりげんなりしてしまった。松たか子がどう考えても私にはエグく映る。岩井俊二的美しさはいつからか私には気持ち悪いもしくはダサいものとして感じるようになってしまったのだった。それを悲しくも思うし、いやいや完全にダセーだろキモって思う自分もいる。高校の名前も、庵野もこちらとしては完全にスベってんぞおっさんって感じだった。福山雅治の度重なるサインの反復は何か意味があったのか、それだけは気になる。
弱さを美とする感覚が年々苦手になっていっている。私は強いから、で、弱いひとがちょっと羨ましいから。でもそれでいいんだと思う。「でもね、別に誰かに助けて欲しいなんて思ってないし」って先日母が吐露した言葉はまさに娘も引き継いでるよって思った。
で、その日はあんまりにも映画失敗デーだったから帰宅後に『ハロルドとモード』を観たんだけど、これが最高だった。普通に観た(というか私には基礎的教養がマジでない、中高大授業全部寝てた)から気づかなかったんだけど、姉にあれはホロコースト映画だと言われてハッとした。アメリカへ逃げてきたこと、腕に彫られた数字、収集癖、定住しないこと、希死念慮を持つ少年と生を脅かされ続け逃げ切った老婦人。この二人だからこそであったのであり、その場が墓なのもかなりイイ。こんなことを考えずとも最高だったけど、何度でも観たい映画だし、何度でもあのラストを思い出して泣いたり元気になったりしたーいって思った。で、ご機嫌に寝た。そんな一日だった。
久しぶりにアップリンク以外の映画館に行ってまずは大橋裕之原作『音楽』を観た。客層がジジイもいるし成人したてみたいな大学生の男の子たちとか、明らかにサブカル女子とかがいていい感じだった。内容はともあれエンディングがなぜドレスコーズだったのか、その統一感のなさ、最後のブチ壊しで完全に萎えた(ていうかプロモーション的な戦略とかが見え透いていて無理)けど、最後のケンジがリコーダーを吹く演奏は、ともだちのおっさんがベース弾いてたから1000点だった。まあそれ以外は特に言うことなし。上京して中央線で活動するカルチャーと、幼少期からそこで生きてきたカルチャーとではやっぱり齟齬があると思う。そんなことを物心ついた時からあった吉祥寺パルコの近江屋閉店を耳にして強く感じた。別にどちらに優位があるとかそういう話がしたいんじゃないけど、やっぱり齟齬はそこに存在するんじゃないか。結局、近江屋は小さい頃おばあちゃんに連れられて行ったっきりだった。さようなら。
その後、展示を見て再び新宿に戻り、公開初日の岩井俊二『ラストレター』を観た(公開初日に観るなんて大好きじゃん!恥ずかしい!って騒いでた)。映画をたくさん観るようになったのは大学入ってからだった。で、ちょうどどハマりしたのが岩井俊二だった。よくある話すぎるでしょ。いちばん好きなのは『PicNic』で、もうCharaばっかり聴いてた(あーよくある話!って恥ずかしくなる、でも当時はめちゃくちゃシビれた)。『リリィ・シュシュのすべて』も『花とアリス』もやっぱり好きで、『四月物語』なんかはそれから数年間、春になるたび観ていた。
夢から醒めたのは『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観たときだった。もう4年も前かと思うとびっくりしちゃうけど、ともだちと観に行って私は完全に萎えて帰りの飲み屋で永遠に私は二十歳前後どんだけ岩井俊二が好きだったか、そして今回でどんだけ嫌いになったかを勝手に語っちゃったのを覚えている。私はもうその頃には夢から醒めてしまっていたし、同時に岩井はこちらからしては気持ち悪い美しさを追求しすぎてしまっていた、と信じたい。で、萎えてぶりの『ラストレター』はやっぱりげんなりしてしまった。松たか子がどう考えても私にはエグく映る。岩井俊二的美しさはいつからか私には気持ち悪いもしくはダサいものとして感じるようになってしまったのだった。それを悲しくも思うし、いやいや完全にダセーだろキモって思う自分もいる。高校の名前も、庵野もこちらとしては完全にスベってんぞおっさんって感じだった。福山雅治の度重なるサインの反復は何か意味があったのか、それだけは気になる。
弱さを美とする感覚が年々苦手になっていっている。私は強いから、で、弱いひとがちょっと羨ましいから。でもそれでいいんだと思う。「でもね、別に誰かに助けて欲しいなんて思ってないし」って先日母が吐露した言葉はまさに娘も引き継いでるよって思った。
で、その日はあんまりにも映画失敗デーだったから帰宅後に『ハロルドとモード』を観たんだけど、これが最高だった。普通に観た(というか私には基礎的教養がマジでない、中高大授業全部寝てた)から気づかなかったんだけど、姉にあれはホロコースト映画だと言われてハッとした。アメリカへ逃げてきたこと、腕に彫られた数字、収集癖、定住しないこと、希死念慮を持つ少年と生を脅かされ続け逃げ切った老婦人。この二人だからこそであったのであり、その場が墓なのもかなりイイ。こんなことを考えずとも最高だったけど、何度でも観たい映画だし、何度でもあのラストを思い出して泣いたり元気になったりしたーいって思った。で、ご機嫌に寝た。そんな一日だった。
2020/01/15
果物の部屋/嘆息の母
椎名林檎の『果物の部屋』というデモ曲。
そのなかに
「暗い部屋では 煙の先に 常に一人の 男をうつして」
という詞がある。
映画を観ていてよく思うのは、男は「ひとり」、女は「女たち」であるということ。
「男」という人生のまっすぐさ、「女」という職業。
それは狩猟時代からDNAレベルで引き継がれているのだと思う。
率先して狩りに出るために個としてのちからを付けた男と、群れをなすことで仲間を守り調和を保つ能力に長けた女。
よく夢について調べているのだが、新しくわかったことがある。本人の性別に関わらず、無意識の投影先は女性であるということ。
去年観た映画で色濃く印象に残っているもののなかに『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ監督のほう)がある。夢はみているのではなくみせられているのだと思っていたけれど、この映画でも夢は操られていたな。過去のことを思い出そうとするとき、夢なのか現実なのかわからなくなることがある。夢でみたことが現実に起こるから。三女神。深き淵よりの嘆息。
どこかの誰かが狂っているかどうかなんて判断する物差しですら狂っているだろ。逆に「自分は狂っていない、真人間だ」と主張する人のほうが怖い。嘲笑う人たち。本当にどうでもいいことのほうが多い。羨望の眼差しは紅い海に溶けていく。皆、何に怒っているの。
最近はずっと緊張しているくせに血が巡らなくて頭も回らない。歯のくいしばりすぎなんだ、きっと。痛いわ。呼吸がはやい。
殴り書きのような日記ばかりが増えていく。これは日記ではありません。
乱視でさだまらない光。
部屋は綺麗に保ちたい。
そのなかに
「暗い部屋では 煙の先に 常に一人の 男をうつして」
という詞がある。
映画を観ていてよく思うのは、男は「ひとり」、女は「女たち」であるということ。
「男」という人生のまっすぐさ、「女」という職業。
それは狩猟時代からDNAレベルで引き継がれているのだと思う。
率先して狩りに出るために個としてのちからを付けた男と、群れをなすことで仲間を守り調和を保つ能力に長けた女。
よく夢について調べているのだが、新しくわかったことがある。本人の性別に関わらず、無意識の投影先は女性であるということ。
去年観た映画で色濃く印象に残っているもののなかに『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ監督のほう)がある。夢はみているのではなくみせられているのだと思っていたけれど、この映画でも夢は操られていたな。過去のことを思い出そうとするとき、夢なのか現実なのかわからなくなることがある。夢でみたことが現実に起こるから。三女神。深き淵よりの嘆息。
どこかの誰かが狂っているかどうかなんて判断する物差しですら狂っているだろ。逆に「自分は狂っていない、真人間だ」と主張する人のほうが怖い。嘲笑う人たち。本当にどうでもいいことのほうが多い。羨望の眼差しは紅い海に溶けていく。皆、何に怒っているの。
最近はずっと緊張しているくせに血が巡らなくて頭も回らない。歯のくいしばりすぎなんだ、きっと。痛いわ。呼吸がはやい。
殴り書きのような日記ばかりが増えていく。これは日記ではありません。
乱視でさだまらない光。
部屋は綺麗に保ちたい。
2020/01/14
ジェームズ・L・ブルックスの会話劇
まずこれを始めた経緯について
修士論文を提出し終わった翌日、大好きなともだちと飲んでて話したこと
・東京で生きていくにはなにかをつくってなきゃいけない
とにかくなにかを発信してるのがかっこいいみたいな風潮がいつからかずっとあると思う。目立たなくてはいけないという脅迫観念に囚われているし、明らかにダサいのにこれは誰がつくったからとか誰が持ってるからとかそういうステータスにあふれている。それが必死な人たちがつくりだした街、「トーキョー」
(それを体現しているのが渋谷パルコだと思う)
・ものが溢れすぎている
つまりその観念に囚われた人々によってものが溢れすぎているんじゃないかって。それは本当に必要?同じようなものがあんまりにも多すぎる。
昨年の私はまさにそれだったと思う、なにかをつくって誰かに認めてもらいたくてみたいなでもたくさんつくったらもう気力がなくなってしまった(空間にしてもジンにかんしても)そこまでしてがんばる必要はまずないはずなのだ。
ということを話してた。で、ひらめいたのがこういう形。ジンはまた気力がわいたら作ろうと思う。でも私は自分が好きだって思うひとたちともっと気軽に語れる場があればいいって思ってるのはずっと変わらない!と思ったのでこういうのを始めてみました。続くかわかんないしどういう感じになるかはわからないけどゆるくやっていこうと思う。
第一回目、何書こう迷ったけど(フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館』も、ヤスミン・アフマド『細い目』も最高だった。あとは清水宏にハマってます。)とりあえず、修士論文執筆中に見たジェームズ・L・ブルックスの幾つかの作品についてタラタラ書こうと思う。
発端は、年末くらいにツイッターで回ってきたこの記事。
で、三宅唱が好きな映画にジェームズ・L・ブルックスの『スパングリッシュ 太陽の国から来たママのこと』(2004)を紹介していた。ブルックス作品はいつだかに『愛と追憶の日々』(1983)を観た記憶があり、それが悪くなかったので早速観たらとにかく最高だった!ありがたいことに、ブルックスの映画はNetflixに上記二作に加え、『恋愛小説家』(1997)『幸せの始まりは』(2010)がある。マジで最高。
ブルックスの映画は映像どうたらとかそういう難しいこと抜きにとにかく会話のスピードがスゴい。年末に『マリッジ・ストーリ』を観てからバームバック熱が過熱した私はやっぱり会話劇が好き!ということに気づいたので、ブルックスの作品は本当にぴったりだった。とにかくよく喋るし、とにかくよく喧嘩する。それがめちゃくちゃ気持ちがいい。こんだけ素直に感情出したっていいよねって思えるから。
そしてどの作品も必死なダメ男が出てきてそれが最高にかわいいし、観ていて嫌いになれるわけがない。『幸せの始まりは』での主人公の助手の産後のプロポーズのシーンなんかは愛が溢れすぎてて完全に感情奉仕になる。(ここで助手の旦那が婚約者(助手)に対して「princess of worry(心配性のお姫さま)」っていうんだけどなんてやさしい言い方なの!って感動しちゃった。)
『恋愛小説家』はめちゃくちゃ自己中なおっさん(ジャック・ニコルソン)のラブコメなんだけど、これもでてくる人物がみんなイイやつすぎて最高。私は性善説を信じきっているので、こんな悪態ついてるやつでもめちゃくちゃキュートだよね、絶対そう!とか思い込んでて、それが全員にバッチリ当てはまる。そんで、ジャック・ニコルソンが自宅のドアを少し開けて外を眺めるシーンはめちゃくちゃ『シャイニング』で笑える。
そしてどの作品もラブコメなのにしっかり家族関係を映し出す。スゴいぞ、ブルックス。たった一夜で大ファンになってしまった。
現実世界がそうであるように会話はとめどなくつづく。そこを切り取ってくれると私はどうしてもうれしくなってしまう。私たちは観たいときに観たい映画を観て、あーあれ面白かったな、誰かに教えようなんてそれくらいの気持ちでいいんじゃないか。
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