2020/07/23

2020.7.7-7.23

期間そんなあいてないので大して観てないけど面白かった映画メモ
『コリアタウン殺人事件』(2020)/『ニンゲン合格』(1999)/『78回転』(1985)/『アトランティックス』(2019)/『ノロイ』(2005)/『すずしい木陰』(2019)/『オカルト』(2008)/『カリスマ』(1999)/『回路』(2000)/『ふくろうの叫び』(1987)/『アカルイミライ』(2002)/『旅のおわり世界のはじまり』(2019)/『メコンホテル』(2012)/『女咲かせます』(1987)/『武蔵野夫人』(1951)/『ラブ・レター』(1998)/『喜劇 特出しヒモ天国』(1975)/『喜劇 女生きてます』(1971)

ここ最近の流れとして暇すぎてヒッチコックノックをしてて、そのあと飽きてNetflixドラマの『呪怨』を観た。みんな(って誰?というか私の周りはみんな不評だったけど)が騒ぐほど面白くなかったし、あの一連のミソジニー論争は何だったんだろう(ポテサラ論争バリに話がずれている気がした)。というか、『呪怨』とかよりもウディ・アレン的なミソジニーの方がどうにかしてほしい。言葉や態度で女性を馬鹿にするあの感じ。『アニー・ホール』初めて観たときは蕁麻疹出るかと思った。
『呪怨』のミソジニーはあのレイプシーンだったり、それに女性が加担するキモさ、全体的な家父長制は確かにわかる(が、年代設定からしてそれは避けられない(?)設定なのでは。だからあれが古いとか言われてもその年代のリアルさを醸すためには必要じゃんねと思ってしまった。特にJホラーの特徴としての「家」という空間をリアルに見せるには家庭があった方がわかりやすい。)。そうではなく某人が怯んだ(というかミソジニーだと騒いだ?)点はあの赤ん坊のシーンではないだろうか。あれの怖さというのはちょっと『ローズマリーの赤ちゃん』に似ている。でも怖いというよりグロい。でもでもさ、人間そもそもが持つグロさなんじゃないのと思った(子どもを産むという行為自体がそもそもそうなのだ。差別的に言いたいのではなく、女の身体はグロい。血を毎月垂れ流してんだから!「女性が子どもを産む」ということがただ感動的に語られてまとめられるメディアに違和感がある。だってそれは痛みを伴うものなんだから。私の悪いところはここで、あ〜男サンはそういうのわかんないもんネ。はい、嫌い嫌いってなっちゃうところなんだけど。)。で、そのお腹に子どもを孕んでいる一種のグロさに怯む方こそミソジニーなんじゃないかと私は思う。思ってしまう。
というわけでJホラーとはどんなものかしら?と思い、しばらく白石晃土をいくつか観るが、全く怖くない。『オカルト』の宇野くんのサイコパスレベルはかなり痺れたが、これも面白いだけで別に怖さはない。ええ〜こんなんならもっと早く観とけばよかったよ!って感じで気分を変えて黒沢清へと移行する。そしたらたちまち怖くなって逆にウケた。
関係ないけど私はJホラーよりも海外ホラーの方が苦手。イットシリーズとか怖くて叫んだ…でもその話をこの間してたら「怖い」と「びっくり」は違うよねと言われて何だか大いに納得した。私はびっくりが苦手!Jホラーはじわじわきてビビらせるけど海外ホラーは突然くる。も〜ほんとびっくりしちゃう、やめてけれ、やめてけれ。
そして更に!関係ないけど、白石作品や黒沢清作品、イットシリーズなどよりも私がわりとトラウマなのは『ジュマンジ』(いちばん最初のやつ)!20代そこそこで初めて観た(遅い!)けどかなりビビってしまったし、あんなの子ども観たら泣くだろー!!ほんとに怖い!!
黒沢清の話に移る前に更に話がずれるけど、アピチャッポンの『メコンホテル』がすごく面白かった。ギターの調べが流れ続ける中で転生輪廻だとか幽霊の話が出てきたりする。チルいBGMのなかで静かに人が人の内臓を召し上がってたりする。そのミスマッチ感がたまらなくシュールでsuper goodでした。

で、私は白石作品から黒沢清ノックに移行する。(これまでも何本かは観てたけど)『カリスマ』が本当に良かった、年1で観たい。あと『ニンゲン合格』も!
ホラーの話に戻る。これまでいわゆるJホラーをほとんど観てこなかったけど(前にも書いたが大体の作品に共通して言えるのが)とにかく区切られた空間に焦点を絞っているように思えた。特に家、もっと詳細にいうなら部屋。で、それとは関係なしに、先日時間があったのであるオンラインイベントをYouTubeで視聴していた。そこで某先生が私的タイムリー!に、黒沢清の話をしだした。割愛すると、清映画のほとんどが東京的であると言っていて、傷ついた都市のその痛みが亡霊としてある空間・場に憑依して現れるのではないかということだった(『回路』とかがまさにそれ!)。ひととひとの間に見えないガラスのような何かでバリア・隔たりができている/群衆であることを禁じられている。まさにこれはいまのコロナが蔓延している東京でしかない。無人化する東京を映す『回路』はいまの東京によく似ている。本当にオリンピックとか何だったんだ、、
清作品における空間の話は鈴木了二『建築映画 マテリアル・サスペンス』でもっと詳しく書かれているはずなので近々ちゃんと読みたい。
黒沢清にも飽きてきて、ここ数日は森崎東・追悼上映をひとり開催してますが、『女咲かせます』では明るい?純粋?な役所広司を観れて笑顔になった。清ノック中は思いつめてる役所広司のオンパレードだったので…


先日誰もが?多くが知っている俳優が自らこの世を去った。特別好きだったわけではないけど、私の年代的に小中学生の頃、テレビドラマをよく観る頃にそのドラマに彼はかなり出ていたと思う。今年の年始にミュージカル好きのOL(私はミュージカル無頓着だから連れて行かれても大体寝る。本当にごめんネ…)に連れられて行ったミュージカル(?それはコンサートっぽかった)で、彼は美しい歌声を響かせていたことを鮮明に覚えている。
大ファンでもないのに彼の訃報はかなりショックでその後数日間はかなりつらかった。今も思い出すと落ち込む。電車のモニターニュースで流れたときは電車が大嫌いになった。
でもここで言いたいのは私はこんなに繊細でーす!!綺麗なこころを持ってるでしょう!とか私HSPだから気遣って!という喚きでもないし、「残念」だなんて彼が選んだこと何だから私が言えることでもない。し、だからつらいときはみんないつでも相談してネだなんてデカいキモいことも言いたくない(私は私自身と数少ないともだちや大事なひとを守るので精一杯だ)。そうじゃなくて何でこんな悲しかったのか考えてみたとき、それはHSPであるからでももちろんあるけど、私にとって必ず助けてくれる。いつでも絶対に寄り添ってくれるのは映画で、それは間違いなくて、そんな自分にとって救いである、というか信じる対象である映画に携わるひとが亡くなったということが悲しかった。でもそこまで考えたあと、私にとって映画を信じるというのはそういうものなのか?って思った。そうではないのだ。私が信じるのは俳優や監督ではなく映画そのもの(でありたい)。

「われわれは一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなこといえば、馬鹿者たちは笑だすだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。」

croyanceの失われた2020に!