2021/02/01

2021.1.13-1.31

最後更新してからみた映画
『ジャーマン+雨』(2006)
『悶絶 ほとばしる愛欲』(2006)
『団地妻 白昼の不倫』(1997)
『新・団地妻 不倫は蜜の味 今宵かぎりは…』(1999)
『デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』(1986)
『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)
『メロデ』(1989)
『二十歳の死』(1991)
『花井さちこの華麗な生活 インターナショナルバージョン』(2004)
『Doodlebug』(1997)
『不倫日記 濡れたままもう一度』(1996)
『風たちの午後』(1980)
『フェリチタ!』(2020)
『ウィーク・オブ・ウェディング』(2018)
『怪談』(1965)
『奥様は妊娠中』(2019)
『バーニング・ゴースト』(2019)
『街をぶっ飛ばせ』(1968)
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)
『すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』(2019)
『現代好色伝 / テロルの季節』(1969)
『路面電車』(1966)
『顔』(1966)
『役所』(1966)
『ジェーン・カンピオン短編集』(1982)
『孤高』(1974)
『リクエスト番組』(1967)
『Fabryka』(1971)
『他人の顔』(1966)
『白い朝』(1965)
『東京1958』(1958)

あとはmyfffで短編を何本か
気分が変わっていくのが並べるとよくわかる。
前半は、ビデオマーケットを退会しようと思って(闇動画ほぼみたから)見逃していたピンク映画をどんどこみてたけどそうしたら楽しくなっちゃって退会するのやめた。
サトウトシキの『不倫日記 濡れたままもう一度』は本当に素晴らしかった。。幽霊になっちゃう葉月螢最高!
myfffは『奥様は妊娠中』と『バーニング・ゴースト』は結構面白かった。後者とかちゃんとスクリーンでみたい。
そんで私の最近の大事件といえば、先日夢で自室にビデオデッキがあったんです。で、ふつうになんかみてて、起きてあ〜ビデオデッキほし〜〜〜と思いながら、その日は暇だったから古本を漁りに行ったんです。そしたらボガンボスのライブVHSが2本売ってるのを見つけちゃって、あ、これは私が買うやつジャン!と確信し、その数日後テレビデオを買った。超久しぶりにサクサク買い物した。メルカリ大好き!
その後にボガンボス買ったりキエシロフスキーの『デカローグ』をもらったりして最近はVHS生活を楽しんでる。楽しすぎる。『デカローグ』の道のりは長すぎるのでいい機会だと思ってキエシロフスキーの初期作品とかいくつかみてるんだけど、みんな初期に怪ドキュ撮るもんなのかな、、と『役所』あたりをみて思った。ゴダールのコンクリートのやつとか、みんな通る道なの?そんでその後男と女の話に突っ走るコースなの?謎。

ところで行き場のなくなった『天国にちがいない』について年始に書いたやつをここで加筆して成仏させまーす。昨年末Filmexで観たエリア・スレイマン『天国にちがいない』が素晴らしかった(日本では1月29日から公開)。イスラエルに生まれ育ったスレイマン自身が彼自身(映画監督であり一人の男)として出演し、ナザレの自宅から出発し、パリやニューヨークといった都市を回っていくストーリーである。結局オチは「どこに行ったって天国であり地獄」で、(ところで最近ブルーハーツのライブVHSを買って延々と流してるんですけど、「TRAIN-TRAIN」には「ここは天国じゃないんだかと言って地獄でもない」って歌詞がありますけど本当にそうだよね、いいやつばかりじゃないけど悪いやつばかりでもない。あー会社とかマジでそう。それでもやめて〜〜〜〜話はさらに脱線しますけど、ブルーハーツ(よりもハイロウズ)とか、ボガンボス(よりもどんと)みたいな素晴らしい歌詞はもう誰も歌わないんですか。なんでみんな男女の絡れについてしか歌わないんですか、別にいいけど。「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない」についてわからん奴らが多すぎるからだ〜〜〜〜バーカバーカ)

不自然な静けさを伴ってパリでは多くの警官が暇つぶしに路上に設置されたカフェの椅子と椅子の距離を測ったり、ホウキで空の瓶を排水溝に捨てようと必死になっていたり、ニューヨークでは広場の椅子を必死に(けれども静かに)取り合う地元の人々が映されている。
映画には異質なものが入り込むと途端に深みを増すのだと、年始に言われたときこの映画をふと思い出した。例えば『動くな!死ね!甦れ!』(1990)の頭のおかしな老人だったり、『ダゲール街の人々』(1976)もそう。当たり前の日常には必ず異質なものが紛れ込んでいる。一昔前はヴィヴィアン・マイヤーのような街にいるひとに近づいて写真を撮ること(それも日常的に、彼女の撮りためたフィルム量は目まぐるしい)や、もっというなら牛腸茂雄のようなさりげないけれども障害児の真っ直ぐな瞳に思わず慄いてしまうような、そんなポートレートが多くあった時代であるが(映画でいうなら土本典昭の水俣シリーズなど)、いまではそうした言い方に語弊はあるが、赤の他人に近づくこと、もっというならば異質な他人に近づくことがタブーである時代なのではないか。これはコロナ禍でさらに加速していくだろう。異質なものを入れろと言いたいわけではないが、そうした私たちが普段目にするけれど近づいてみることができないような世界を映画は広げてくれるものだと思う。ただ一人の女と男が出会うためにそれ以外は排除するといったダイレクトな映像がいまやテレビや広告映像にとっては主流だが、スレイマンの新作はそういったダイレクトさをも皮肉としてる気がしなくもない。ダイレクトに、シンプルにしたところでやはり異質さはにじみ出てくるはずだ。それをどこまでも削ろうとするのはあまりに傲慢であり、カメラに対して失礼である。回り道した中(けれどもそれは回り道ではなく、私たちが普段本来目にしている風景)にある異質なものが含まれてしまっている映画に今年はどれだけ出会えるのか、楽しみだ。といういい感じにしれっとシメた文章があったわけでした。

これの途中に出てくる顎がやばいじいちゃんとかね。